司馬遼太郎

西洋人の観念には、「神」という「絶対の存在」――つまり比類なき唯一のウソ――があるように思う。
古来、「神学」は、ありもしない絶対(神)を、ある、ある、という哲学的論証を重ねつつ、論理と修辞と叙述を発達させてきた観がある。
-[1923-96] 大阪市出身の小説家・評論家 司馬遼太郎1994年文藝春秋『日本人の二十世紀』より-
昨日、とある会合で池上彰先生とお話する機会を得ました。
質問に答えていただいたのですが、ふと、現在世界でおきている状況、イスラム世界の混沌、イスラムとユダヤ社会の軋轢(イスラエル問題)、アメリカでおきたユダヤの教会(シナゴーグ)での銃乱射事件・・・、中国での宗教弾圧問題(新疆ウイグル他)。日本での公人靖国神社参拝に対しての他国の干渉・・・。まあ枚挙にいとまがないわけです。

同じキリスト教徒でもカトリックやプロテスタント、東方正教会、主張が違います。まあ、どれも2000年前にイエスがこの世におられた(であろう)時代、彼自身が信じていたユダヤ教とは似ても似つかない教義になっていることはまちがいないと思うぞ。

そりゃ仏教だって同じで、仏陀の言葉という「ウダーナヴァルガ」と、僕の宗教である浄土宗の教えとは全然ちがう。
言葉も教義も時代とともに教祖様のお言葉とかけはなれていくのはこれ必定だと思うぞ。
たいへん、失礼な意見とは思いますが、司馬遼太郎先生も、鋭いことを述べておられます。
いまや科学技術も進歩し、けっして世界が「神様が一夜で創った」ものではないことが常識となっています。しかし、アメリカですら宗教上の理由で、ダーウィンの進化論を信じない人がたくさんいますね。

ひとりの神が「絶対神」だと考えることは、多様性を失い人の考えを狭くする。
ある意味、無宗教といわれた日本人が戦後信仰してきたことは、「経済教」だったのかもしれない。
その信仰が崩壊していくなかで、自分自身の考えを多様化していくことは一朝一夕にはできないよね。だから「学ぶ」、「楽をしない」、「成功体験」を捨てる。
イエスも、仏陀もムハンマドも偉い人たちは、まさにその実践をされている。そここそをまねるべきだと思うな。


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コメント(8)

匿名さんいらっしゃい。人間なにかを信じないと生きていけない生き物ですよね。動物は生きることに意味など感じていないでしょう。「生きる」ことそのものが目的なんでしょうね。
僕らの信じている「民主主義」もあたりまえだと思っている「資本主義」も時代が変わればとんでもない考え方かのかもしれませんね。ハンニバル・レクター博士のような狂気の天才と猟奇の犯罪者は紙一重なのかもしれません。「神」という神秘の概念が崩れたら次は「科学」を神に祭り上げる。おそらくその次はAI:人口知能を神とあおぎ、自らは考えない動物に進化していくのでしょうね。

米国中間選挙のニュース映像で「私は毎日トランプさんをお祈りしています」と言っていた共和党支持者が何人かいました。多分熱心なプロテスタント信者だと思いますが、トランプが良い悪いは置いておいて、こんなに熱狂してしまう人達には、ぼくはちょっと引いてしまいます。ある意味、新しい宗教の誕生を垣間見てしまったようでに思いました。信じる心ってすごいですね。

余談ですが、無神論者で有名な方はちょっとググれば沢山出てきますが、面白いのがハンニバル・レクター博士。
映画評論家の町山さんがおっしゃってましたが、レクター博士は「教会の屋根の崩落によって起きた死亡事故」の研究もしていたそうです。熱心なキリスト教徒が、神様をのお祈りのために教会に行き、その教会の屋根が崩落したことで死亡してしまうのなら神はいないのではないかと考えていたそうです。
もちろんレクター博士はトマス・ハリスのフィクションですがこういう考え方も面白いなと思いました。でも、熱心な信者さんは「これも神の思し召し」ということになるんでしょうね。

杉山さん、コメントありがとうございます。僕も似たような環境で父はまったく信仰心のない男でした。無神論者であることに多少の引け目を感じるのも、「信仰心は必要だ」と心のどこかで思っていることのあらわれなんでしょうね。無神論者は現代病かと思いきや、紀元前1世紀のローマの哲学者ルクレティウスが『事物の本性について』ですでに「宇宙は神々の助けなどなしに動いている。人間を含む万物はたえず動き回る極小の粒子でできている」と語っています。しかしこの書は15世紀まで門外不出だったそうですからいかに当事のカトリックが無神論を恐れたかがわかりますよね。
でも、神は信じなくとも今朝も出勤前に庭で蝶を見たとき、亡くなった母が会いに来たと素直に思ってしまう僕がいました。無神論者でカネしか信じない人は「経済教」。他にも誰しも何か自分の信じる価値観があるはずですよね。そのような「ストーリー」が人間には必要なんでしょう。「生きている意味」を明確にする。
本当は「生きている意味」なんてないんでしょう。ただ現象として「生きている」。動物はそこに疑問をまったく感じていないから死するその瞬間まで必死で生きるのだと思います。その「生きている意味」なる虚構がないと人間は生きていけない。人間とは不思議な生き物ですね。

お久しぶりです。
両親が信仰に熱心ではなかったこともあり、ぼくは特定の宗教を信仰していません。
しかし、実家が某学会の総本山の近くにあったことから、クラスの何人かは学会メンバーであったりと、宗教は意外に身近なものでした。

サンタなんていないんだと知った頃、「神様もいないんじゃないか?」と思いはじめ、熱心に神様を祈る方々とどう接すれば良いのかとても考えてしまいました。
高校時代の親友が、両親は無宗教なのに自ら某信者になった時にはとても複雑な心境になりってしまいました。

でも世界の殆どの人達は何かしら信仰しているのも確かであり、否定する気もありません。
神様は多分いないだろう、科学的にもいないと思う。しかし、神様を信仰する事で、その人の心が癒されるのならば、神様はいるという事で良いんじゃないかと考えるようになりました。多様性を受けいるれるということですよね。

パスカル、ニュートン、ケプラーは科学者(数学者)でありながら元は神学者でもあったそうです。
彼等は神に近づきたいあまりに、追求した結果が科学的 数学的な証明方法となったと記憶しています。科学と宗教は相反するものではなく、補完関係にあるものかもしれません。ノアの箱船を信じ、進化論を否定するようなキリスト教原理主義の方々は、もう少し勉強し、広い視野で多様性を認めてほしいものです。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神が同じ神であることを知ったら、彼等は腰を抜かすでしょうね。

p,s. 池上さんの著書「池上彰の宗教がわかれば世界がわかる」という本を何年か前に読みました。

人間は動物の中では弱い生き物ですよね。現実の厳しさをバーチャルな理想の世界で癒しながら生きている。そのバーチャルな中から想像力が生まれ新しい智恵と力が生まれてくる。
「現実」だって脳が感じるかぎり本人がバーチャル化してそれを「現実」だってとらえてる。だから同じ境遇にあってもプラスにできる人もマイナスに考える人もいる。
そのバーチャル化の最たるものが宗教なんでしょうね。しかしいま宗教の力が落ちているといわれています。その宗教に変わるバーチャルな世界がネット上の本当のバーチャルな世界になってしまいつつあるんじゃないでしょうか。
これから先の答えはまだ誰も知りません。

人類は宗教があるから正気を保つことができ、破滅を免れてきたきたのかもしれないですし、だから宗教はこんなにも普遍的なのであり、おそらく神は存在はしないと考えるのが自然なのだけど、存在するものとして意識の中に聖域を置くことで、倫理や道徳、規範、法律などの源泉となりえたのではないかと考えます。
確かに僕は信仰心は薄いのかもしれませんが、絶望からの救いや心の安定その他様々なものを求めて信心する人の気持ちはわかります。他人の信心を軽んじることは傲慢だと思います。
でも、現実世界は祈るだけでは解決しないことだらけで、例えば、司法試験合格を目指している人がいたとして、いくら滝に打たれ、火の上を歩いて祈祷しても、勉強しなければ合格は到底おぼつかないでしょう。
やはり、自助努力できる環境にあるうちは精一杯努力すべきと考えています。
僕の話はテーマとちょっと論点がずれているかもしれません。すみません。

たごさくさん、お久しぶりです。
僕も同じです。毎朝、儀礼的ではあっても仏壇にお線香を上げて神棚に手を合わせているんですよ。意外でしょう?
神などいない・・・と理性では思っていても、人間はどこかで誰かに頼らないと生きていけないのではないかと思っています。
そして、生きていく上で自分の人生が「意味あるもの」と信じたいんですね。他の動物はたぶんそんなこと考えもせず。今を精一杯生きているだけでしょう。
人間はなんでも無意識にバランスをとっているんだろうと思うんです。昔は「社会貢献」なんて概念はなかった。戦争や事故で死ぬ人もそれなりに人間の身の丈だったでしょう。
でもいまや、飛行機が落ちれば何百人も死に、原爆で10万人。戦争でも何万人も死ぬ時代です。こんなに人の命が軽くなった時代はないんじゃないでしょうか?
だからバランスをとるために社会貢献、地球生存、SDGsなんて運動が起こるんだと考えています。
でも、神に頼る気持ちは大事だと思いますよ。それを忘れちゃ人間じゃなくなるような気がします。

こんにちは。たごさくです。ご無沙汰しております。
僕も年齢を重ねて50年以上生きたせいか、宗教など人間の都合で人間が作り出した人間のための規範やルールに過ぎないのではないかと考えるようになりました。
もし創造主としての神がいるとすれば、すべての生きとし生けるものに平等なはずであり、そう人間の都合ばかり聞いていられないのではないか。
人を殺すと殺人罪や傷害致死罪などに問われます。他人のペットを殺すと器物損壊罪でしょうか?ゴキブリやハエや蚊を殺しても罪に問われるとは考えにくいですね。
もし神の視点で見るなら、すべての生命は共通の祖先に行き着く訳だから、人を殺すことも虫を殺すことも除草剤で雑草を枯らすことも同じくらい罪深いとも言えるし、人命の重さなど虫けらと変わらないとも言えると思います。
と言いつつ私は毎朝、仕事前に神社にお詣りしています。祈願と言うより、自分の弱さを自覚して自分の弱さに心が揺らがないように、というような決意表明に近いかな?

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