ブレーズ・パスカル

人間は自然の中(うち)で最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。
これ(人間)を押しつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水の一滴(ひとしずく)も、これを殺すのに十分である。しかし、宇宙がこれを押しつぶすときにも、人間は、人間を殺すものよりいっそう高貴であるだろう。
なぜなら、人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。
宇宙はそれについては何も知らない。それゆえ、我々のあらゆる尊厳は思考の中(うち)に存する。
空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によって、私は宇宙を包む。

-[1623-62] フランスの哲学者・科学者・文学者 ブレーズ・パスカル「パンセ」より-

このあまりにも有名な名言はいたるところで紹介されていますし、バイカー修ちゃんも2001年4月25日に一度紹介しています。
(http://www.q-bic.net/biker/diary/html/200104/25.htm)
そのときはちょっと短縮形だったので、今日はもう一度紹介しましょう。
じつは今朝、1.5kgのダンベルを両手に持って、早朝ジョギングをしておりました。
住宅街を抜けて山手に入るそのときに、美しい雄のキジが一羽表れてほんの2メートルほど先の土手の上から僕を見ているんです。
赤い顔に緑のビロードの胸、淡いガルグレーと茶色のまだら羽。
あまりの美しさに走るのをやめて見つめあっていました。
このキジ、みょうに哲学的な目でじっと僕を見ているんです。
とっさに「あっ、亡くなった母だ」と思いました。
その瞬間・・、キジは藪の中に消えました。
そのことをずっと考えながら、海抜200メートルの山を折り返し、復路の3kmを下っていたとき、さっきキジを見た場所で、今度は路上に一匹の「毛虫」を見つけたのです。
今年初めて見る毛虫でした。
クルマも通るこの農道の真ん中を、その毛虫は一生懸命に反対方向へ向ってはいずっていました。
すると・・・その上を、一匹のモンシロチョウが優雅に飛んでいました。
その毛虫はモンシロチョウの幼虫ではないでしょう。
しかし、蝶か蛾の幼虫であり、その種であることはまちがいない。
この毛虫の世界とはどんな世界でしょう?
「クルマにひかれるぞ!」僕の目は、毛虫から見ると「神の目」でしょう。
彼にそんなことは認識もできないし、彼の世界は二次元なんです。
多くの毛虫は、その姿のまま、鳥に食べられるか、ふみつぶされて死んでいく。
でも、幸運にも成虫になったら、この毛虫は、三次元の空を舞う。
ものすごい衝撃を感じました。
彼らは、姿かたちを変えて別の次元を見ることができる。
われわれはどうか?
生まれて死ぬまで、その姿は変わらず、生きていくための毛皮すらない。
次元を超えて悟りを得てもそれは、しょせん精神世界の話にすぎない。
まあ、毛虫にとっても自身の姿が変わっていることを認識もしてはいないかもしれないけど。
その意味において、僕らは毛虫と同レベルだ。
もしかしたら、「神の目」でみている造物主がいるかもしれない。
しかし僕らは、蝶のように物理的に「変身」するわけではない。
人間は「考える葦である」このパスカルの真の意味は、「考える」ことが万物の霊長として偉大なのであるという俗世の意味じゃないんだ、と。
これは、しょせん、「川原の葦」程度のありふれた人間よ、自分の「分際」を超えて、ものを見ちゃいけないってことなんだと悟りました。
なにが「万物の霊長」だ。毛虫から蝶に変体するほうがはるかにシュールだ。
どんな芸術家の妄想も、キジの美しさには及びもしない。
人間は、自分の分際を超えてはならない。
しょせん「考えても葦程度」なんですよ。
この連休、ずっと考えていました。何のために事業をするのか?
カネのために右往左往するあわれな人間ばかりを見つめ、今どのようなことを考えなければならないのか?
早朝、この衝撃を受けて、午後74歳の父とハーレーにタンデムで親子ツーリングをしました。
途中のアイスクリーム屋さんで、誰が見てもコワモテのハーレーのジャケットを着たソリコミの父が、2歳くらいの子どもを抱きかかえ、アイスクリームを買って与えているのを見て、悟りましたね。
迷ったら、バイク。僕はやっぱりあっち側の人間なんだなって。
こっち側の世界で常識って「観念のヨロイ」でこりかたまった連中にルシファーズハンマーをくらわしてやるぞ。

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