人は、他人が書いた文を読んで、おそらく自分を読んでいる。自分の、他人とは共有できるはずもない個の体験を、言葉の作用で呼び起こす。体験は、言葉にはならない。その人の、一回限りのものだ。われわれはそれらを記憶し、だれかの言葉によって思い起こす。
-東大仏文科卒 システムズ・リサーチ社チーフコンサルタント 吉田繁治 2004年9月の発言-
吉田繁治さんは言葉の魔術師みたいなところがある。この方を知っている人も多いだろう「ビジネス知識源」等のメールマガジンや、いろんなメディアで発言されている。経営コンサルタントというよりも、専攻が仏文科で哲学専攻だからほかの数字や空虚なプロセス論のコンサルタントとは選ぶ言葉が違っておもしろいんだ。今日の一言はまさに、バイカー修ちゃんの心のもやもやを表してくれた名言ですね。「なぜ人の書いたものをむさぼり読むのか?」って長い間思ってたんです。そりゃ共感したり、疑問に思ったり、理解できなかったりするんだけど、この吉田氏の「だれかの言葉によって思い起こす」作業ということに「なるほど!」とヒザを打ちました。体験は一回限りでも、脳は何度もこれを繰り返して反復できる。こんなことできるのは人間だけなんじゃないだろうか?嬉しさも悩みもつきることはない。忘れていた記憶。遠い遠い記憶。そのときに感じた複雑な思い。それをしまいこんでいる。「読む」とはその記憶を掘り出す作業なんだね。そのときは理解できなかった母の言葉。酔っ払った父のいびき。今では理解できる。うらぎられた経験。うらぎった経験。それすら意識していない途切れた友人への後ろめたい記憶。人間の記憶は9割が「満たされない想い」だと感じてる。今、人の文章を読むことは、自分の過去の振り返りと納得の作業かもしれない。これを書いてる僕も、これを読んでいるあなたにとっても。



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