2008年03月16日

ヴィクトール・E・フランクル

私は医学者として、とにかくあることを学んだ。教科書は嘘八百だ、ということを。たとえば、どこかにこんなことが書いてあった。人間は睡眠を取らなければ何時間だか以上はもちこたえられない。まったくのでたらめだ。収容所暮らしでは、一度も歯を磨かず、そしてあきらかにビタミンは極度に不足していたのに、歯茎は以前の栄養状態の良かったころより健康だった。あるいはまた、半年間、たった一枚の同じシャツを着て、どう見てもシャツとは言えなくなり、洗い場の水道が凍ってしまったために、何日も体の一部なりと洗うこともままならず、傷だらけの手は土木作業のために汚れていたのに、傷口は化膿しなかった。あるいは、以前は隣の部屋でかすかな物音がしても目を覚まし、そうなるともう寝つけなかった人が、仲間とぎゅう詰めになり、耳元で盛大ないびきを聞かせられても、横になった途端ぐっすりと寝入ってしまった。人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それは本当か、本当ならそれはどこまで可能か、と聞かれたら、わたしは、本当だ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないで欲しい・・。
-[1905-] ユダヤ系オーストリア人の実存主義的心理学者 ヴィクトール・エミル・フランクル著 「夜と霧」霜山徳繭訳みすず書房より-

みなさん、「夜と霧」はご存知の方も多いと思います。アウシュビッツでユダヤ人のフランクル自身が経験した記録ですよね。あまりにもむごいが、人間の崇高さを知らされるすばらしい本だと思います。人間はここまで強くもあり、環境に適応できる動物でもあるんですよね。それは、囚人たるユダヤ人にも言えるし、加害者でもあるドイツ人にも言えるんですね。彼らだって普通の人間なんです。でも「環境」が人間を天使にも鬼にも変えてしまう。人間って本当に切ない動物ですね。今、このアウシュビッツと比べるまでもなく、人間の歴史でいちばん「自由」を獲得した時代は現代でしょうね。いまだそうでない人もたくさんいるでしょうけど、でもこれだけ自由なのに、どんどん自分で自分を縛り付けている感じがするのはバイカー修ちゃんだけじゃないでしょう。不自由な時代、社会にはそれなりのバッファがあった。よくも悪くも「あいまいさ」があった。でも今はどうでしょう?事細かに決まった決め事、法律、以前ならば双方の「あ・うん」で解決したことも、すべて他人に判断をゆだねる「無自覚の時代」になった。こうなると、人間は自分の素直な感情でさえ許せなくなってくる。誰が誰を許すかって?自分がさ。人間は感性で生きている。まちがいのない人間はたぶん一人もいない。なのに他人を責めるんだ。そのアクシデントが人生を豊かにする。個人も社会も国も宇宙も。人間は間違うようにできているんだ。そしてそこから何かを学ぶ。なのに現代は「間違ってはならない」社会になっている。これではストレスがたまる一方だ。僕らは寛大になることを学んでいかなければならない。そして・・志(こころざし)は持ち続けなければならないと思うんだ。僕らはすべて罪人だ。マタイの福音書の六章にもこう書いてある。「私たちに負債のある者を許しましたように、私たちの負債をもお許しください」と。仏教だって相手を許し自らを許せって教えてる。これは大事だと思うぞ。

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コメント

くまさん、いらっしゃい!
そうですよね。書いてて自分で心が痛いです。
人間ほど高等な動物もいないっていうけど、人間ほど愚かな動物もまたいないですよね。
人間が滅びなかったら、あと1万年もすれば少しは変わるんでしょうかねえ・・。疑問です。

  • バイカー修
  • 2008年03月17日 23:02

こんばんは
今日みたいな一言に触れると、心が痛いです。
解っちゃいるけど止められないって感じでしょうか。
まだまだ青いなぁ私も。
「我等が人に許す如く 我等の罪を許し賜え」って40年以上も祈りの言葉を唱えているのに
許すことって難しい。そして自らを許すことって他人を許す以上に難しい。
「だが、どのように、とは問わないで欲しい・・。」って言われても、尋ねたい気がします フランクル殿。

  • くま
  • 2008年03月17日 00:18

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