正岡子規

今朝起きて見ると精神は非常に安穏であった。

そのままにガラス障子の外を静かに眺めた。

正面には女郎花が一番高く咲いて、鶏頭はそれよりも少し低く五、六本散らばっている。

余は病気になって以来、今朝ほど安らかな頭を持って静かにこの庭を眺めたことはない。

糸瓜の葉が一枚二枚だけひらひらと動く何だか苦痛極まってしばらく病気を感じないようなのも不思議に思われたので、 文章に書いてみたくなって、余は口で綴(つづ)る。
-[1867-1902] 愛媛県伊予松山出身の明治の俳人・作家 正岡子規の「九月十四日の朝」最期の詩-

これが正岡子規最期の詩です。この5日後に亡くなります。

これを読むと人間には魂(たましい)というものが存在するというということを実感しますね。

科学というものが、わが国ではこの200年くらい進化普及しものごとはすべて「計算できるもの」最終的には生命だって、分子活動のレベルまで掘り下げられる・・と信じられるようになった。

でもやっぱりそんなものはマヤカシだと思う。

世の中数字でわりきれないものがたくさんあるし、数字で表されるものに特化したから科学は進んだんだと思うぞ。

それはたんなる「手法」であって科学には人格はない。

でもこの子規の詩には魂がある。

女郎花と鶏頭と彼にはなんの因果関係もないんだけれど、彼は死と苦痛から一瞬救われたような気がした。

花の生命と同化してる。

この感性(こんあ軽薄に使いたくないけど)を大事にする学問。

文学や民俗学、哲学なんかを昨今はおろそかにする。

科学的じゃないからだそうだ。

数字で表現できる現象しか信じないこの社会はまちがっている。

そんなものこの世のほんの一部の現象だ。

生きる目的は?親子の愛は?数字で表せますか?

いつから稼ぐお金で仕事の良し悪しを考えるようになったんだ?

それこそ不幸のはじまりだ。正岡子規はとても幸せな人生とはいえない。

けど、死の直前まで彼の魂は生きようと、生きるとはなにかを模索している。

彼の魂は永遠に残る。

え?、バイカー修ちゃん非科学的ですかね?

よくドライな理系に見られます。違うんですよ~。

誰も嫌う哲学おじさんなんです。

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