「古典」とは人々が賞賛する本である。しかし読みはしない。
-[1835-1910] 米国の小説家 マーク・トウェインの言葉-
この「古典」っていう言葉はクセモノなんだよね。人によって尺度がまったく違うのだ。あるひとは古代ギリシャやローマ時代を思い浮かべるだろう。ある人は「源氏物語」かもしれない。またある人は「ぼっちゃん」がすでに古典かもしれない。音楽なんて「クラシック:古典」なんていうとバッハからモーツァルトまでなんでもクラシックだ。中学校の音楽室なんて彼らの肖像画にまじって滝廉太郎も並んでたなあ。映画なんて歴史の浅いものをいう場合「イントレランス」(不寛容)なんて20世紀の最初のころの超大作だけど、十分古典だろう。これだけ「古典」って言葉の解釈はトレランス(寛容性)なんだね。ってしゃれにもなってないなあ。でも言ってる意味はわかるよね?だれでも知ってるけどだれも見たことも読んだこともないものっていうマーク・トウェインの言葉はよくわかる。ちなみにみなさんは彼の代表作「トム・ソーヤーの冒険」とか「ハックルベリー・フィンの冒険」は読んだことあるあろうか?小学生のころ図書館とかの童話で読んだぞって人は多いかもしれない。バイカー修ちゃんもそうだった。ある人はこれだってもう「古典」なのかもしれない。もう62年前の原爆だって戦争だって歴史の中の「古典」だと思っている人も、それは「昨日」あったことと思っている人もいるかもしれない。つまり、半世紀前の悲惨な過去を「応仁の乱」と同じ歴史の事象と思っている人と昨日あったリアルな体験と思っている人がいる。でも体験者も70歳を越えている。みな「古典」となったとき、人間は読みもしないし、振り返ることもしなくなる。そして・・・同じまちがいを繰り返す。人間って愚かだね。バイカー修ちゃんも愚かだもの。でもいつかこれを断ち切ろう。自分の愚かさに気がつけば、自分のバカさかげんに気がつけば、そこから逃れたいと祈るはず。いづれの神もお見捨てにはならないだろ?美しい国や強い国家を目指す世界の指導者たちは何を祈っているんだろう?昨日の原爆記念式典を見ててそう思ったな。



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